開設者の独り言

 世の中には、不思議な話が山ほどあって(ここでいう不思議な話とは、科学で証明できないという意味)
このホームページの話もその一つなのかもしれない。
 このページでは、あえて誤解を招かないために、これでもトンデモナイ話は、最低限にとどめてあるつもりである。塩谷信男翁の著書をお読みの方は解ると思うが、いわゆるトンデモナイ話は山ほど書いてある。

 私は今までこの手の話(霊の話とか、預言とか)は、あるかもしれないし、ないかもしれない、ていどのニュートラルな立場だったと思う。(いわゆる世間一般の人と同じ認識しか持ち合わせなかった)

 それが、こうしてホームページまで開設することになったのは、このトンデモナイ話を信じてしまったからである。

 いったい、信じるということはどういうことなんだろう?

もし、この同じ話を他の人からされたり、聞かされたりしても、私は信じなかったかもしれない。 私は、塩谷翁だから信じてしまった。
言い換えれば、この話を信じたわけではなく塩谷翁を信じたのである。
 この人がいうならば本当のことなのだろうと。
でも、信じるということは本来そういうことなのだと思う。

 私は、塩谷翁に一度だけお会いしたことがある。(HP立ち上げ当時・・・現在2000年時点で数回に増えました)
このホームページを開設する旨の許可を頂くため、手紙で先生にお知らせしたところ、一度会いたいとのお話があり、伊豆のご自宅まで伺った。

 そのときの印象を簡単に書くと、最初、先生は応接室のソファーに座っておられたのだが、私を招き入れると、「遠いところわざわざご苦労様です」と椅子よりお立ちになり、直立不動で頭を深くお下げになりました。こんな若造に、まことに丁寧にご挨拶をいただき、かえって恐縮してしまいました。
 先生は私に話をするときの目は、眼光鋭く心の中まで見透かされそうなのですが、お笑いになると、笑顔がまことに素晴らしく、心に浸みいって来るようでした。
小説家、司馬遼太郎が「竜馬がゆく」のなかで、坂本龍馬の笑顔は、人の心に浸みいるような笑顔であったと書いていますが、それを思い出してしまいました。

 人を信じると、その後に必ず「騙された」とか「裏切られた」という行為がついてまわります。
でもこれは信じることと表裏一体なのではないだろうか。
 だから騙されても一方的に騙した方が悪いわけではなく、騙された方にも責任はあると思う。

私は、騙されたことに関しては自分にも責任の一端はあるのだから、人のせいにはしない。また、自分の「信」についても、他人に強要はしないつもりだ。(自分の「信」に関しては自分で責任はとるが、他人の「信」までは、とても手が回らないからだ。)
 この、ホームページや塩谷翁については、皆さんが、皆さんの責任において判断を願いたい。

 しかし、地球破滅の霊示にしても、その真偽はここ5年位、遅くても10年の間にははっきりするだろう。

 賭事にたとえるなら、私は当分塩谷翁に張り続けるつもりだ、そしは「チェ、はずれちまったな、大損しちまったい」となるか「そうらみろ、俺は始めからわかってたのさ」となるかは、これからのお楽しみというところである。

 信仰の名の下に、サリンを撒いた人達は、教祖を信じていたのでしょう。彼らと私の「信」の違いはなんなのでしょうか?
 それは、彼らは自分の「信」に対してチェックを怠っていたからだと思います。
教祖や、または自分が信じているもの(人)の言動や行動をいつも監視していなくてはならないのです。

 自分の信じているもの(人)が、他人を非難仕始めたり、金儲けに走り始めたりしたら要注意です。(また、私は組織作り、それを大きくしていくことだけに奔走している人達も要注意だと思う。なぜなら、組織は大きくなれば、なるほど腐っていくものだし、それを維持するが為にほとんどのエネルギーを使うようになるからだ)
 このチェック機能をいつも自分のなかで作動させておくことが、「人を信じる」ことと「狂信や盲信」とを分ける唯一の方法だとおもいますがいかがでしょうか?
 

 

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